suzume38’s blog

Pythonを勉強中です。日々雑多なことを書いています。

微分積分

最近、時間があると微分積分の勉強をしている。

勉強といってもYouTubeで説明している動画を見るくらいだが。

それもこれも、新たに目標となった「Pythonエンジニア認定データ

分析試験」の勉強の一環ではある。

Pythonの試験勉強をするにあたり、あるエンジニアの方のブログを

ものすごく参考にさせていただいている。

ブックマークに登録し、少し悩んだ時はそのブログを参考にしている。

人様のブログをその方の許可もなく勝手に紹介していいのか

よく分からないのでここには記載しないが本当にお世話になっている。

その人が試験合格に向けて取り組んだ事はほとんど真似させていただいて

いるのであるが、「Pythonエンジニア認定データ分析試験」は

数学の知識も必要となる。その勉強のために「予備校のノリで学ぶ」

シリーズの動画をおススメされているので自分も見る事にした。

実際見ていて驚いたのだが、ここで講師をしているたくみさんは

本当に分かりやすい。

個人的には、難しい事を全くの初心者にも分かるように説明できる人が

本当に賢い人だと考えているのであるが、まさにこのたくみさんは

その概念に当てはまる人である。

自分は今回初めて知った人なのであるが、ホリエモンとも交流が

あるそうなので業界では有名な人のようである。

彼の動画の中で微分積分について説明しているものがあるのだが、

そこで話していたことが衝撃的であった。

「世の中の事は微分で記述され、積分で読み解かれる」

語彙や言い回しなど多少違うかもしれないが、とにかくそのような

事を言っていた。

動画の中では微分は「傾き」、積分は「面積」と説明している。

積分の説明も面白かった。

グラフというと折れ線グラフや円グラフなどを想定するが

物事はだいたい微妙な誤差があって、折れ線グラフのようでいて

実際の点と点をつなぐと放物線で表されるのである。

でも微妙な誤差まで考えていると複雑になりすぎるので、

ある地点と地点を線で結んで微妙な誤差は切り捨てられて

いるだけなのである。

当たり前だけど重要な事である。

 

当たり前のことを当たり前のこととして忘れること(意識しないこと)。

当たり前のことを当たり前のことだけど忘れないこと(意識すること)。

その違いは意外と大きい。

 

その微妙な誤差をどう判断するかがそれぞれの

個性なのかな、などと思う。

 

別に正解などはないのであるが、あえてその誤差の部分

にフォーカスする人がいても良いと思う。

逆に分かりやすい指標を元に生きていくのも良いと思う。

ただ、世の中は分かりやすい折れ線グラフや棒グラフではなく

実際は放物線なのである。

微妙な誤差は切り捨てられた、分かりやすい状態として公開されて

いるのである、という事を頭の片隅に入れて生きていくのは

意外と生きていく上で大きな知恵となる気がする。

そんなこんなで、ほんの少しだけ賢くなった気がした

微分積分の勉強である。

Pythonエンジニア認定データ分析試験

Pythonエンジニア認定基礎試験」が合格したので

Pythonエンジニア認定データ分析試験」を受験することに決めた。

昨年くらいまではただの趣味の一つとしてPythonを勉強して

いただけなのだが、我ながらすごい心境の変化だと思う。

 

プログラミングの勉強を始めて良かった事。

それは、自分の欠点に気付く、という事だと思う。

普段の仕事などでは例えば簡単なミスなどは周囲の人がそっと手直し

してくれることがほとんどで、あえて自分にミスを指摘しないもの

のではないかと思う。

でもプログラミングの場合はそうはいかなくて、どんな簡単なミスでも、

一つミスをすればシステムはエラーを出して動いてくれない。

そして永遠とどこを間違えたのか、自分で考え自分で気が付き

自分で修正するほかは先に進む手立ては無いのである。

自分にとってプログラミングはその作業の繰り返しである。

 

あまりにも単純ミスが多い事に自分でも辟易し、ひいては

日頃も仕事で何等かのミスをしていたのではないだろうか、

何て事も考え始めるようになるのである。

そして同時に他人のミスにも寛容になるのである。

プログラミングの勉強はとても孤独で、時にエラーは二度と解消

できないのではないかと考えたり、どうしようもなく行き詰まった時

なんかは、もしかしたらPCが故障しているのではないか、

何てことも考えたりするのだが、でも今となってみれば

全て自分の簡単なミスと思い込みが原因なのである。

 

そういう事を繰り返しながら、それでも勉強が続いているのは

とことん悩んで色々試行錯誤し、それでもダメな時には一旦放棄して、

それでも少し気分が回復したらまた向き合い、そうやってエラーを

解消させたときの喜びが、本当に大きいからであろう。

日頃の仕事や生活では味わえない感覚なのである。

 

自分以外の全ての人にとって、ものすごく小さな数行のプログラムが

動くか動かないかなんて本当にどうでも良いことだと思うが、

自分にとっては今どうしようもなく解決したい課題なのである。

 

勉強を続けていて99%苦痛があるとしたら喜びは1%くらいかも

しれない。

それでも解決出来た時の1%の喜びがとても濃いものだから

ギリギリの状態で続ける事ができているのだと思う。

この熱量がいつまで続くか自分でもよく分からないが、

とにかく時間と気力が許す限りは勉強を続けていきたいと思う。

コロナワクチンとふるさと納税

昨日、オミクロンのワクチン接種をしてきた。

これまでは親族の病院で打っていたのだが、最近は予約も

しやすくなったと聞いて、初めて自分の自治体の集団接種会場

で打つことにした。

驚いた。

とても地味な地区なので、色々システム等にも期待してなかった

のであるが、ラインで申し込みができ、当日や前日にも予約確認の

お知らせがくる。

想像していたよりもすごく現代的でかつ親切なシステムだった。

そして昨日。

接種会場はとても古い市役所ではあるのだが、それでも

休みの日にも関わらず、市の職員と思われる方々や、

学生ボランティア思われる学生服を着た若い人たちが一生懸命

誘導・対応してくれてなんだかありがたくなった。

無償のワクチンでここまで親切な扱いを受けるとは。

ワクチン自体は貫禄のある女性が打ってくれて、驚くことに

今まで受けたワクチンの中で断トツで上手であった。

(先月会社でインフルのワクチンを受けたがかなり痛かった)

これまでなんとなく集団接種というものに対してあまり信用して

いなかった自分をお詫びしたくなった。

 

ワクチンが終了し、待期期間も無事終了し、古い学校風の市役所

を後にしながら考えてしまった。

自分はただメンドクサソウ、という理由でふるさと納税をして

いないのであるが、今回自分の地区のために頑張っている人達を見て

何だか感動してしまった。

そして自分も自治体に対して何か恩返しがしたくなった。

時間的にボランティアをするなどは難しいのであるが、せめて

自分の納める税金はかなり微々たるものではあるのだけれど、

ふるさと納税でもらえるお肉やフルーツは我慢して、

このまま自分の自治体に税金を納めていこうと決意した

ワクチン接種であった。

 

昔の知り合いに会うということ

昨日、以前いた部署の仲間と久しぶりに飲んだ。

みな今は別々の部署で働いているが、少しづつ仕事で絡みが

あったりとご縁は続いている関係だ。

一緒に飲んだのは本当に5年以上ぶりなのだが、

当時気が付かなかったことが気になったり、当時は少しだけ残念な感じ

で見ていたその人の性質が今ではとても好ましいものに感じられたり。

メンバーのことを見る、というよりは自分の変化を感じる時間

であった。

人はそう変わらない。

自分も恐らくそう変わらない。

自分も相手も変わったのではなくて、ただ気が付くようになった

それだけのような気がする。

でも年齢を重ねて、その人らしさというものがより濃くなっていく

のは感じられる。

優しい人はより優しく。

さっぱりした人はよりさっぱりと。

別に何が正解という事ではないのだけれど。

自分の性質がより濃くなっていくという事を知った上で

どんな自分を選択するのか、今はけっこう大切な時期なんだと思う。

あっち側とこっち側

今日はとても抽象的な事を書こうと思う。

実際の言葉にすることもできるけれど、ものすごく嫌な奴に

なりそうなので抽象的な言葉で書こうと思う。

 

あっち側とこっち側。

今は色々な幸運が重なってこっち側にいるように思えるけれど

いつあっち側にいくか分からない。

健康とか家族とか友人とか仕事とか。

普段当たり前だと思って享受している幸運は、幸運である事すら

意識せずにいるけれど。

でも、あっち側に行って初めて当たり前ではない事に気が付くのだと

思う。

もしかしたら、自分にとってのこっち側は誰かのあっち側なのかも

しれないけれど。

 

みんな同じように努力して、働いて、でも何かの拍子にあっち側へ

行ってしまう。

PCなら、色々な不具合で本当に困った時は電源を切って再起動する事が

できる。

でも人生で再起動する事は現実的には難しい。

出来てログオフ、くらいであろうか。

 

人によって、こっち側とあっち側の定義は違うだろう。

たとえば、自分にとっては自由度や選択肢の多さが基準となる。

何が正解かも何があっち側なのかもよく分からない。

それでも、あっち側とこっち側のシーソーゲーム。

いつ何かの拍子にあっち側に傾くかも分からないシーソー。

今の場所を気に入っているのであれば、今の場所の負荷を

高め続けなければいけないのだろうなと

それだけは何となくわかる。

Python3エンジニア認定基礎試験

Python3エンジニア認定基礎試験を受験し合格した。

シンプルに書いたが、実際はかなり勉強した。

こんなに勉強したのは高校生以来だ。

合格した人の勉強法のブログを読んだり、無料の模擬試験を何度も

受験し問題と解答を暗記するくらいまでやりこんだ。

模擬試験は毎日1回は受験するようにした。

あとはチュートリアルを書籍で購入し通勤時間や寝る前の時間に

何度も読み返すなどした。

 

たぶん、本業の方々はそれこそ実力で合格できる「文法」レベルの内容

かもしれないが、畑違いの自分にとっては全ての事が初めてで

一行の構文を理解するのにそれこそ数日かかるくらい時間がかかった。

内容も自分にとってはハードルが高いものだったが、それと同じくらい

費用も高い試験だった。

11,000円。

なかなかの金額だ。

趣味で何度も受けられるレベルではない。

だから、記念受験というよりは必死になって勉強し何とか一回で

合格を目指して勉強した。

でも結果として1回目の受験では不合格であった。

試験はその場で合否が分かるのだが、自分ではそこそこ出来たと

思った直後の不合格判定を見て、思わず周りに人がいるのに

「あ~⤵」

なんていう変な声がつい出てしまった。

人って本当に残念だと思わず声が漏れてしまうのだな、なんて

思った記憶がある。

とにかく前回不合格となり、しばらくは一人で不貞腐れていた。

誰が悪いという事ではないが(あえて言えば自分の実力が足りな

かっただけ)それでもかけた時間やお金などを考えて一人

モヤモヤしていた。

本業でない自分がそもそも受けるものではないのではないか、

なんて事も考えてしばらくはPython関連の本も全て本棚に

しまってしまった。

それから一か月くらいは離れていた。

それでも、なぜか少しづつPython愛が戻ってきて、今までに

かけたお金や時間を考えて、このまま終わりにするのも

なんだと思い、この一週間で集中して勉強しなおすこととした。

前回の試験で迷った曖昧な文法や、どちらかというと簡単と

思える基本の部分を集中して勉強した。(前回はクラスなど

どちらかというと複雑な内容の理解に時間をかけていた)

そうしているとどれほど自分は基本が理解できていないかが

自分でも実感できるようになった。

足し算も分からないのに方程式を解こうとしていたようなものだ。

 

今回は「自分は基本文法もあまり分かっていない」

という前提のもとで受験をした。

受験中も3回ほど見直しをし、何度も答えを直し、あまり手ごたえを

感じられないまま終了した。

正直、合格していても不合格でも「まあ、そうだよね」という状態

だった。

試験後のアンケートを終わらせ、恐る恐る合否判定のボタンを

押したところ「合格」であった。

つい周りに人がいるにも関わらず小さくガッツポーズを

してしまった。

たいして理解できていないという事は理解しているので、

合格といっても全然誇れるものではないのだが、

とにかく久しぶりに喜びを感じた一日であった。

非日常から日常へ

コロナ禍、といってここ数年、非日常の生活を送っていた。

当初違和感を感じたテレワーク、ステイホーム、密・・・

色々な言葉が生まれ、馴染んでいった。

自分を守り、相手を守るためならやむをえない。

感染を防ぐため、という名目のもと様々なお約束事を

みなきちんと守ってきたと思う。

だいぶこの状態にも慣れてきた頃、今度はウィズコロナなんて

言葉も生まれ、最近になって水際対策の緩和、マスクの不要・・

イベントの人数制限の解消・・・少しづつ、コロナ前の状態に

戻ろうとしている。

 

昨日、バスに乗っていた。

時間帯のせいか地域柄か、そのバスは高齢者が多く利用している。

昨日も自分以外はみなかなり高齢のお年寄りばかりが乗っていた。

自分が乗る時には既に満員で座る場所が無いので仕方なく

立っていた。

少しすると80歳は超えているだろう女性が

大きな荷物を抱えて乗ってきた。

その女性はバスの混在ぶりを見て座るのは無理だと

判断したようだが、最後列に座っていたお年寄りがざわざわし始めた。

そこには「感染予防のためひと席空けて座りましょう」

というボードが置かれ、彼らはそれを守ってひと席づつ空けて

座っていた。

もちろん正しい座り方だ。

でも自分より高齢の女性を見て、みな少しづつ席を詰め始めた。

最初は知らない同士で「でもひと席空けなきゃダメなんじゃない」

なんて話し合いもしていたが、最終的に

「こちらどうぞ」

と女性に声をかけ無事みな(自分以外は)座れる事となった。

 

感染対策も大切。

人にうつさないことはもちろん大切。

だけど、最近の電車では当たり前に混雑した状態である。

野球だって席を空けないで観戦している。

なのにどうしてバスだけ、当初決めたルール通りに

感染対策を続ける必要があるのか。

感染リスクを減らす必要があるが、お年寄りの場合は揺れる車内で

何かの拍子に転倒するリスクもある。

 

お年寄り達はたぶんいつもは守っているだろうひと席空けるルールを

自分達の判断の上であえて破って高齢のお年寄りを座らせていた。

 

非日常から日常へ。

ささやかだけど、こうして色々な場面で、どこかの誰かが決めた

ルールから自分達が正しいと判断した日常へ戻っていくのだな

と感じた土曜の午後であった。