suzume blog

Pythonを勉強中です。日々雑多なことを書いています。

「タイパ」

最近、やたら「タイパ」という言葉を聞くようになった。

いわゆる「コスパ」の時間バージョンだと自分は理解している。

どういう事に使うかというと、例えば授業の動画や映画を1.5倍速で

見たり・・・

あとは流行る曲もサビからイントロに入るまでの時間が昔よりだいぶ

短くなったという。

イントロに入るまで時間がかかりすぎると別の曲にスキップされて

しまうという。

そんな時代、だといえばそれまで。

 

今の時代、どこを見ても効率化。生産性の向上。時短。DX・・・

確かに全てにおいて「間」なんて不要で「早い」事が最善とされる社会。

でも、時々誰かに聞きたくなる。

「そんなに急いでみんなは何をしたいの?」

 

人なんて、結局いつか死ぬのだ。

人の一生なんて宇宙単位でいえば本当に儚い一瞬。

その限られた一瞬の時間でどれだけ自分がしたい事をするのか。

どれだけ自分の夢をかなえるのか。

どれだけ自分らしく生きるのか。

それが全てなのではないかと思う。

 

話が少し逸れるが、以前は普通にテレビでドラマを観ていた。

もちろん、今もドラマは観ているが録画をして途中のCMを

飛ばしてみている。これも「タイパ」の一つかなと思う。

でもこの前、リアルタイムでドラマを久しぶりに観たら

なんだか懐かしい気持ちになった。

途中でCMがあるのだが、その度に家事の続きをしたり

少し考え事をしたり・・・家族がいたら家族と話したり。

広告会社は不本意かもしれないが、意外とCMの時間は

貴重な忙しい日常に強制的に生まれる「間」だったのかもしれない。

もちろん、だからといって自分はこれからもドラマは録画して

CMは飛ばして観る事には変わりない。

一度「待たずに済む」事を覚えてしまったら、もう戻れない。

人間の脳はそういう風にできているのではないかと思う。

 

ただ、それでも人には「間」が必要なのだと思う。

常に情報に溢れ、常に音に溢れ映像が目の前を流れていく。

目、耳、頭、すべてが押し寄せる情報を処理しているようであるが、

でもこれは一種の思考停止状態と同じなのだ。

そして、思考停止の状態から抜けるためにも「間」は必要なのだと思う。

 

最後に「タイパ」と聞いて真逆なエピソードを思い出したので

ここで書いておこうと思う。

以前もこのブログで書いたかもしれないが、自分が一番好きな話。

星野道夫さんの「旅をする木」の中にあるエピソード。

ずいぶん昔に読んだので細かい部分はあいまいなのであるが。

 

旅人が原住民に先導してもらい足早に道を進んでいた。

突然、原住民が道の真ん中で足を止めて動かなくなった。

どうして先に進まないのか、と聞いた旅人に原住民は言った。

自分達はあまりにも早く進み過ぎた。

心が追いつくまでしばらくこの場で待つのだ。

 

あまりにも急ぎ過ぎると心はまだ追いついていないかもしれない。

もしかしたら、心は置き去りにされて迷子になっているかもしれない。

これは「タイパ」に重きを置きすぎる我々の核心をついているように

感じるのである。