suzume blog

Pythonを勉強中です。日々雑多なことを書いています。

一番強いのは?

「貧乏人は強いんだ」

確かこんなセリフをクローズZEROの登場人物が言っていた。

当時はその意味を理解する事が出来なかった。

でも今なら理解できる。

自分なりの理解かもしれないけれど。

失うものが少ない方がより強くいられるのだ。

 

pythonの試験に向けてある無料模擬試験を受け続けている

のであるが、最初は本当に散々な点数で悲しくなった。

それでも間違ったところを調べたりしていくうちに

少しづつ点数が上がるようになり、この前ついに1000点満点

となった。

まあこれは模擬試験なので本試験とは全く別物ではあるものの

密かにとても嬉しかった。

そして、しばらくその模擬試験を受けるのが怖くなった。

だって今最高の状態なのに、また試験を受けたら点数が下がる

可能性がある。

なんだかそう思うと試験を受けようと思う気持ちにブレーキが

かかったのだ。

 

何事も当てはまるのかもしれない。

今に満足している時にはこれ以上リスクを取りたくない。

リスクを取る事で失敗した時に傷つきたくない。

そう思って次の一歩を踏み出す事が難しくなる。

でも、その場に止まり続ける事が一番のリスクなのだ。

小さな成功を重ねて、それを少しづつ自信に変えて努力し続ける。

何も持たない無敵の状態とは違うけれど、努力し続けている

という事実がその人を強くしてくれるのだと思う。

「タイパ」

最近、やたら「タイパ」という言葉を聞くようになった。

いわゆる「コスパ」の時間バージョンだと自分は理解している。

どういう事に使うかというと、例えば授業の動画や映画を1.5倍速で

見たり・・・

あとは流行る曲もサビからイントロに入るまでの時間が昔よりだいぶ

短くなったという。

イントロに入るまで時間がかかりすぎると別の曲にスキップされて

しまうという。

そんな時代、だといえばそれまで。

 

今の時代、どこを見ても効率化。生産性の向上。時短。DX・・・

確かに全てにおいて「間」なんて不要で「早い」事が最善とされる社会。

でも、時々誰かに聞きたくなる。

「そんなに急いでみんなは何をしたいの?」

 

人なんて、結局いつか死ぬのだ。

人の一生なんて宇宙単位でいえば本当に儚い一瞬。

その限られた一瞬の時間でどれだけ自分がしたい事をするのか。

どれだけ自分の夢をかなえるのか。

どれだけ自分らしく生きるのか。

それが全てなのではないかと思う。

 

話が少し逸れるが、以前は普通にテレビでドラマを観ていた。

もちろん、今もドラマは観ているが録画をして途中のCMを

飛ばしてみている。これも「タイパ」の一つかなと思う。

でもこの前、リアルタイムでドラマを久しぶりに観たら

なんだか懐かしい気持ちになった。

途中でCMがあるのだが、その度に家事の続きをしたり

少し考え事をしたり・・・家族がいたら家族と話したり。

広告会社は不本意かもしれないが、意外とCMの時間は

貴重な忙しい日常に強制的に生まれる「間」だったのかもしれない。

もちろん、だからといって自分はこれからもドラマは録画して

CMは飛ばして観る事には変わりない。

一度「待たずに済む」事を覚えてしまったら、もう戻れない。

人間の脳はそういう風にできているのではないかと思う。

 

ただ、それでも人には「間」が必要なのだと思う。

常に情報に溢れ、常に音に溢れ映像が目の前を流れていく。

目、耳、頭、すべてが押し寄せる情報を処理しているようであるが、

でもこれは一種の思考停止状態と同じなのだ。

そして、思考停止の状態から抜けるためにも「間」は必要なのだと思う。

 

最後に「タイパ」と聞いて真逆なエピソードを思い出したので

ここで書いておこうと思う。

以前もこのブログで書いたかもしれないが、自分が一番好きな話。

星野道夫さんの「旅をする木」の中にあるエピソード。

ずいぶん昔に読んだので細かい部分はあいまいなのであるが。

 

旅人が原住民に先導してもらい足早に道を進んでいた。

突然、原住民が道の真ん中で足を止めて動かなくなった。

どうして先に進まないのか、と聞いた旅人に原住民は言った。

自分達はあまりにも早く進み過ぎた。

心が追いつくまでしばらくこの場で待つのだ。

 

あまりにも急ぎ過ぎると心はまだ追いついていないかもしれない。

もしかしたら、心は置き去りにされて迷子になっているかもしれない。

これは「タイパ」に重きを置きすぎる我々の核心をついているように

感じるのである。

本心

ずいぶん昔。

恋愛の話が多かった学生時代。

友人ともいつも誰が好きだ、どんな人がタイプだなどとよく話をしていた。

そんな中、恋愛が上手く行かない友人に、少し手練れた友人が

こんなアドバイスをしていた。

「気になる相手がいたら、恋愛相手に外せない条件を3つ聞く」

「そのあとにもう一つ条件を足すとしたら?と聞く」

最後に足した条件が相手の一番外せない本心なのである、という。

聞いた時は最初の3つがランクが高い条件なのでは?

とも思ったけれど、でも意外と当たっている事もあるような気がした。

 

意外と人は3つくらいはスラスラ答えられる。

なぜなら今までも何度も考えてきたり聞かれたことがあるから。

だからそれはもしかしたら本心ではなくて当たり障りのないもの、

何となく昔から答えてきた(今は違うかもしれない)反射的なもの

である可能性がある。

でも4つ目、というのは普通聞かれない。

だから最新の自分の本心が初めて出てくる、という理屈らしい。

 

この話と少し関連があるのが、「死ぬまでにしたい〇〇の事」。

自分も試しに書いてみたが、最初の10個くらいまではなんとか書ける。

でもそれ以上となると意外と難しい。

でもそこを頑張って自分の本心に向き合って書いてみると

(それでも30個くらいしか書けていないのであるが)驚くべき事が

判明した。

なんと、自分の本心を振り絞って書いた「したい事」には

普段している仕事やお金を稼ぐ事に繋がる事が何一つ書かれて

いなかったのだ。

普段は投資の勉強をしてみたり、老後のためにお金を貯める

事もそれなりに考えていたのであるが。

でも、そのリストにはお金儲けに繋がる事は面白いくらい全く

書かれていなかったのである。

確かに死ぬ瞬間に「〇〇万円貯めた」と思いながら満足感に耽る

自分は想像しがたいのであるが、それでも「したい事」リストには

あらためて眺めてみると、物を買うとかお金を貯めるという事ではなく、

すごく抽象的な事を書いているのである。

例えば

「ものすごく美味しいものを食べる」「ものすごく美しいものを見る」

など。。

老後までに2000万円貯金しなければ、とかNISAも始めるべき?

など考えているが自分の本心では全く考えもしなかったのである。

そのかわり、Pythonについては書いていて、これは転職目的とかお金

ではなくただ本心で勉強したいからなのかな、と思う。

死ぬまでに何をしたいかは人それぞれだし、強制されるものではない。

ただ、リストを書くくらいの時間が無いと自分の本心が何なのか

自分でも分からなくなる事もあると思う。

「すべき」ではなく「したい」事。

お金はかからず、ほんの10分くらいと紙と筆記用具。

もしくはスマホのメモ機能でも良い。

たまには自分の本心に向き合ってみると、予想以上に予想外の収穫がある

のではないかと思う。

カジミール・マレーヴィチ

時間があるので次の休みに国立新美術館にいく事にした。

なぜ国立新美術館かというと、カジミール・マレーヴィチの作品が

なぜか気になったから。

せっかくのご縁?なので彼について少し調べる事にした。

 

元々はウクライナの人。

抽象画を描いていたけれど、大人の事情により最期は人物画を

描かざるをえなくなった・・・

ふむふむ。

抽象画の最たるものとして、「白の正方形」という

正直見て驚くような作品も描いている。

それは白いキャンバスに白い正方形が少し斜めに描かれている

というもの。

どのような境地でこれを作品として仕上げたのだろうか。

正直今の自分には理解できないが、いつか理解できたらなと思う。

 

正解が無い世界。

たぶん、その画家本人でしか理解できない世界観や感覚。

そういう彼らの世界観を作品を通して自分の中に落とし込み、

うまくいけばチラッとでも味わう事が出来る可能性。

もしかしたら、これが芸術の味わい方なのかな。

なんて久しぶりに抽象的な考えをしてみた。

 

少し涼しくなってきたし、これから芸術の秋。

自分に絵の才能は無いが、芸術家の世界を彼らの作品を通して

覗かせてもらおうと決意した朝のひと時であった。

意外と高い

安倍総理国葬費。

16億円。

予想以上に高かった。

当初、反対派のデモなどニュースで見ても、正直なところ

「どちらでもよい」

というのが本音であった。

何故かというと、「所詮、お葬式でしょ?」

くらいの気持ちで考えていたから。

そして、最近の一般人のお葬式は安ければ数十万円でもできるので、

てっきり元総理大臣だとしても、そこに〇が2つ加わるレベルの話

なのかと考えていたのだ。

だから、「税金で行うのは反対!」

という意見を聞いても、「まあまあ、これまで日本の代表として

色々頑張ってくれたのだし」

なんていうぼんやりとした気分で考えていた。

でも、「16億円」

と聞いたら「まあまあ」どころでは無くなった。

これを故人の資産や政治家の皆様の寄付金?基金?で行うという

のであれば「どうぞどうぞ・・」という流れになるのであるが、

「税金」から賄われるとあれば、少し額が高すぎるのである。

この時代、もしかしたら16億円なんてたかが知れているのかも

知れないが、それでもコロナのせいで生活全般が苦しくなって

きた国民のために有意義に使ってもらいたいと思ってしまう。

自分がもしも故人であるなら、国葬にお金をかけるよりは

残された国民のために使用してもらう方が嬉しく感じると思うのだ。

国葬国民投票などおかしい話かもしれないが、税金を使うのであれば

それこそアンケートや世論調査で国民の意思を聞いてほしいと

久々に憤りを感じたのである。

教えてほしい

昨日、久しぶりにとても驚く事があった。

某近所にあるスーパー。

そこでは今年の春頃から自動レジが開始された。

最初は恐る恐るスキャンなどしていた我々買い物客だったが

最近はどこにバーコードがあるかも把握しており、みな自分のリズムで

スキャンできるようになってきた。

自動レジの良いところは自分でスキャンしながらそのまま袋に詰める

事が出来るのでとても効率が良い事だ。

自分も最近はだいぶ慣れてきて、昔コンビニでバイトしていたことも

あり、スキャンする事も楽しく感じられるようになってきた。

そして、昨日の話。

長ネギの束を買ったのであるが、バーコードがうまく貼られておらず

スキャンが上手くいかない。何度やってもエラーとなるのだ。

手こずっている自分を見て、店員さんが自分で入力する方法を教えて

くれたのであるが、少し動揺していたのか自分は無意識でネギが一本

書かれている絵を選択してしまった。

値段が98円と表示され一瞬安いようにも感じたが、そのまま気にせず

袋に入れようとしたところ、なんと自動レジがエラーの表示を出したのだ。

店員さんがやってきて、ネギの束の方を選択してください、との指示

がありその通りに入力しなおしたらもちろんエラーは発生しなかった

のではあるが、、、

とにかく驚いたのだ。

変に悪意などは無く、無意識にネギ1本を選択したのではあるが、

どうして自動レジはその過ちに気が付いたのであろうか。

カメラが確かについているが、ネギは束である、という事まで

認識できるのであろうか。

それとも数人見守りとしている店員さんが、自分の動きを見て瞬時に

入力エラーとなるよう遠隔操作したのであろうか。。

いや、そんな事非効率過ぎる気もする。

昔レジのバイトをしたことがある親族に聞いてみたところ、

エラーとなったがバーコードの情報が残っているのではないか、

との事であった。

それなら、少し納得がいくが、、、でもバーコードで情報が読み取れる

のであれば、どうしてそのままネギの束としてスキャン出来なかった

のが。

今度はそちらの疑問も出てくるのである。

とにかく、自動レジ、予想以上にハイテクである、という驚きを胸に

帰ってきた土曜日の買い出しであった。

最近の不満

つい最近、地下道で迷ってしまった。

しかも、本当に自分でも情けないのであるが、勤務先のある駅の地下道。

いつも同じ出口から出ているのであるが、その日は運悪く駅に着いた時

大雨が降っていたのでコンビニで傘を買う事にした。

確か自分の普段使う地下道にキオスクがあったと思ったのだが、

コロナの間に閉店し跡形も無くなってしまっていた。

地下道は自販機は充実しているので普段は気にも留めなかった

のであるが、キオスクは意外と困った時に必要なものだ。

とにかく、キオスクが消滅していたので、いつもは使わない出口に

コンビニがあった事を思い出し、そちらから会社に向かう事にした。

記憶の片隅では少し遠回りする、くらいの印象であったのだが、

実際は巨大な迷路のようになっていて歩いていて不安になってきた。

果たして自分の希望する出口に向かっているのか、

歩いている向きはここで間違っていないのか。。

この10年で数回何かの事情で利用したことのある出口であったはず

なのだが、すっかり迷子の気分であった。

結論としては何度か行ったり来たりして通常の3倍くらいの時間は

かかったものの、無事コンビニに辿り着き、地上に出てからは

問題なく会社に辿り着いたのであるが、この時強く思ったのが

「とにかく人がいない」

という事。

正しくは「駅員さんがいない」。

確かに利用する人は多く歩いているのであるが、

昔いたようななんとなく巡回している駅員さんが一人もおらず、

延々と整然とした地下通路が続いていて、ちょっとしたデストピア映画

みたいな気分になった。

当たり前であるが、足早に歩いている人に尋ねるなどという事は

出来ず、とにかく困り果ててしまった。

心が折れて、雨でも良いからいつもの出口まで戻りそこから会社に

向かおうか、なんていう気持ちも湧いてきたくらいだ。

もし、そんな時に駅員さんが歩いていたらどんなに心強かった事

だろうか・・・

今日はただ、自分の方向音痴の話になってしまったが、

とにかく常日頃から「いつもいたあの方々(駅員さん)」はどこに消えたのか、

という事を強く痛感した朝であった。